気がつけばと言うが、気がついていない間はどこに居るのだろう。


気がつけば年が明けてから随分と経ってしまっていて、慌てることもなく今やれる事をやっているだけで日々は滞り無く順調に消化されて行く。
特別なことなんて何もなくても楽しく暮らせていてありがたいなと思うのは自分の価値観に対して。僅かなものだけで満足できる。幸福に対しても小食でいいのは燃費がよくて助かるし、そんな自分に変化させて来れたことが今までを振り返ってみても無駄ではなかったなと感じられる。

考えていたことは大概、死生観に対してだった。比重として死に対してずっと考えていたのような気がする。それを考えることで生に対しても考えざるを得なくて、それらを理屈で説き伏せようと自分に対して試みていたのだが漸く諦めがついたというか。分かっていたけれど感じる事を理屈で説明するのは無理なことだった。言葉の力を信じていてなんでも言葉で説明したかった。
書きものをする人間だからってのもあったけど、未知なるものに対して突き詰めて自分なりの解釈で答えを出そうとしていたのだけど、もしそれを今後続けようとするにしても、今は感じる方向に神経を集中させなければならないというか。意識してなかったけど哲学的になっていて、喩えが難しいのだけど全盲の方に対して赤色を説明するような感じだった。
女の人は男性よりも見える色の数が多いらしい。僕が見ている赤は女の人にとっては違う赤なのかもしれない、その差異をどう埋めて伝えようかとか、そればかりか同じ男同士でも本当に赤を赤と全く同じ色だと認識出来ているのかとか、もうそういうレベルで。
まぁ今は取り敢えず一区切りして、感じることに心を傾けてみる。そんなこれからが始まったのだろうと一月も後半にして思うわけです。
そういえば最近なんだか親愛なる友人から「哲学ですか?深ぇー」みたいな煽りを何回かくらう事があるんだけど、もう普段から哲学者っぽさが言動とかに滲み出てんのかな。ニーチェとか知らないし哲学書も読んだことないんだけど面白いのかな。あまり興味がわかない。パラパラっと読んでしまっても「うん、そうだね」って納得して終わってしまうので。感銘が無い。深く読めば得るものがあるのだろうか。哲学書を読む時また哲学書もお前の事を読んでいるのだろうか。

最近悲しくて寂しい事があった。近所に住んでいた婆ちゃんが亡くなられたのだ。御年87歳だったかな。去年の暮れに脳梗塞で倒れてそのまま病院から帰ってくることが出来なくて。思い出すのはその最後の最後まで畑仕事をしていて腰も曲がってたけど、とことこ歩いてる姿と母の名前をちゃん付けで大きな声でよく呼んでたなっていう。よく野菜とか頂いていた。本当に元気な人だった。もう見かけることが無いのかと思うと寂しい。家はどうなるんだろう、うちの近所は数件しか家が建っていないのであの家がもし取り壊されると、少し景色が変わってしまう。それを思うともっと寂しくなる。どうなるかはまだ分からないけども。

なんだかそんな事を考えていると会いたい人に会える環境っていうのは素晴らしいもんだなと思う。会いたくても会えない人が居るし、それは様々な理由からなのだけど、凄く歯痒くてもどかしい。
当時の自分の至らなさとかが要因の一つだったりもするんだけどさ、疎遠になってしまって共通の友人なんかが居なかったりすると生存確認すら出来なくなってしまう。生きててどっかで笑ってくれてればなと思うんだけど、それすらも確かめようが無いってのは、なんかね、死と同じぐらい寂しいものなのかもしれない。
長く生きるという事は誰かの死を看取っていかなければならないという事で、それをこの先あと何回繰り返して行くのだろう。僕は人と疎遠になりがちだから、死んでも知人友人全てに伝わるってことは無さそうなんだよな、自分個人ではなく死はそれからも残って生きていく人達のものだったりするから、その辺りはきっちりやっていきたいなとは思うんだけど。ネット上での知り合いとかにも失礼ないように伝えておきたいね。

去年はもう感性が死んでいたので今年は満開にして行く。大器晩成型とか遅咲きだけど一大で富を築くとか姓名診断とか四柱推命とか見ると書いてあるので是非その方向へ持って行きたい。遅咲きならもう咲いてもいいはずなんでね。ただ異性間のトラブルに注意とかもよく見かけるのでそれは出来れば避けたいと思っている。