「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」

 


「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」6.5ブルーレイ&DVDリリース! - YouTube


タイトルから連想するのはファンタジーですよね。実際パッケージ手に取っ手裏面見てみても“海原に浮かぶ舟に虎と主人公”みたいな感じで、ファンタジーだな随分と大風呂敷を広げた設定なんじゃないかなと思って気になっていました。
ま あ、映像はファンタジックな部分も大きくてそれはね綺麗なものが多かった。ちょっと前半部分、パイの生い立ちについて描かれてるんですがそれは退屈かもし れません。というのは「あ、こういう映画なの?」みたいなイメージしていたものとのギャップ、随分と生真面目に一時間ぐらいは描かれているので少々堅苦し さを憶えるかもしれませんねと。
ところが実際に虎と舟で過ごし始める中頃からは期待している以上の映像美は観られるんじゃないでしょうか。

ところで、この映画は凄く評価されている映画だと思うのですけど、それは色々な解釈が出来るからっていう部分もあるんじゃないかと思うんですよね。
ここからはネタバレで。


 

ネタバレ無しではこの映画は語れない部分があると思うんですけど、この映画の魅力については先述した通り解釈の自由さがあって、それはラストに語られるパイのもう一つの話、どうして漂流して生き延びることが出来るのかという日本人記者の問いに対する答え。

そ の話が今まで語ってくれたエピソードの数々、エメラルドに発色するクラゲやクジラを眺めたり一緒に泳いだりした夜のこととか、飢えていた時にトビウオ?か 何かの群れが舟を横切ってくれたお陰で生き延びることが出来た話、楽園のような緑とミーアキャットが多数生息する無人島の話なんかもそうですが、そういっ たお伽話のようなものとはかけ離れた真逆の辛辣で過酷な話をパイは語るんですよね。
事実としては後者のその過酷な話なのでしょうけども、だとする とパイはその漂流期間をファンタジーに脚色してくれてる事になるんですよね。各エピソードが何かの比喩になっていると。まあ全部がそうではなくて作り話も あるのでしょうけど、どのエピソードが「これは実はこういう事なんじゃないかな?」って、個人個人で解釈が変わってくるんですよね。そこに深さと面白みが ある映画なのでしょうね。

色々と他の方の考察とか読んだんですけど、虎はパイ自身ってのはそうなのだろうなと。自身の生に対する本能的な 部分が虎なのではないかなと。信仰を持っているパイ、でもそれだけでは飢え死にしてしまう。そこに動物としての生存本能がむき出しになった、食べ物がない 状況下でパイは生きるために今までの自分ではなく、別の何かにならなければいけなかった。

よく凄惨な事件が起きた時に人の仕業じゃないとかニュースで言われますけど、パイも同様で、パイはそれを虎に喩えたのでしょう。他にもシマウマやハイエナなんかも舟に乗り合わせているのですが、それらも全て比喩なわけで。

最 後にその虎と別れるシーンが来るんですけど、虎が振り返らないのは印象的なシーンでした。ここでもどうして虎は振り返らなかったのかと、その事にパイ自身 も思い悩んでいましたが、あれは再び地上で人に揉まれて暮らすのに自分(虎)のような人格が居ては邪魔になるから、自分はあるべき場所へ帰るよと。

そ の時のパイはその意味が分からずに苦楽を共にした仲間が、もう一人の自分が何も言わずに立ち去ってしまうことに号泣するんですけども、僕個人としては、今 までの227日間の漂流だったら人格破綻が起きてもおかしくないと思うんですよね。そんな簡単においそれと引っ込んでくれるものなのかなとは思いました ね。元々持っていたパイの信仰心の厚さが再び人間性を戻させてくれたと言ってもいいのかもしれませんが、んーそれだけの信仰心があれば罪悪感に苛むことは 確実だと思うんですよねぇ。罪悪感は全て虎が背負ってくれたのかな?
自分に都合の悪いことをもう一つの自分に任せちゃうと解離性同一性障害とかに繋がるきっかけになるってのは結構ある話だと思うんですけど、いわゆる多重人格っていう。

パ イは子供の頃から賢い子でしたけど、その虎である自分自身さえも漂流期間のうちに受けれいているように思えますね。元からそういう純心さだけでなく何かを 受けれ入れる強さを持っていたっていうのは、子供の頃にイジメられていた時に培われたものなのかもしれませんね。思えばそこでパイは卑屈にならなかった。 彼には信仰があったから。自尊心が損なわれずに育つことが出来たのは信仰と、また聡明な両親の教育のたまものなのかもしれませんね。

とある無人島も昼はミーアキャットが大勢居て植物が覆いしげっているのに夜になると全く別の体をなします。

こ の島の比喩もこの映画を語る点で外せない部分ではあると思うんですが、島の全景を上から観た時に女性の形をしているというね。そして池があってそこの水は 昼間なら飲めるんですけど、夜になると打って変わって強烈な酸が帯びて、ミーアキャットも飲み込まれていたような。また蓮に似た花があって、その幾重にも 重ねられている花びらを開いて行くと中には人の歯が包まれているシーンとかね、意味深ですよね。


この島の解釈については、島の形や 池が酸性に変わることから女性を現していて、それはパイの恋人のことなんじゃないかとかね。なんか膣内ってのは基本的に弱酸性で排卵が近づくと酸に弱い精 子を着床させるために性質がアルカリ性に変わるとか。恋人と思われるような描写ってなかったように思えるんですが、島が女性を現しているのはそんな気がし ますよね。

他の解釈の一つとして島は社会を現していて、ミーアキャットなんか何匹か虎に食べられてますが、至って皆が皆、無関心。それでも 夜になって島が変化すると昼間は仲間が食べられても無関心なのに皆が木に上って安全な場所に避難する。これは個々に対しての興味は薄いものの、全体の変化 に対しては敏感に反応する社会、現代性を現しているのではないかといったもの。

なんかね、どちらともありそうですよね。ただね、架空では ないと思うんですよね。何らかの象徴であったとしても、実際に海の上であの島に着いたことは生き延びるための大きな要因となっています。映画の中ではたら ふく食べて島の植物とかミーアキャットとか出来るだけ舟に詰め込んで島を後にしているんですよ。だから実際にも島に変わるような何か腹を満たせる何かが あって、それを島に喩えていると思うんですよね。


そこでグロテスクな解釈が他になされていて、島の形が女性だったのはパイと一緒に 舟に乗っていたパイの母親。それは映画の中ではオラウータンに喩えられていますが、その母の肉を食べて飢えを凌いだという。夜に木に上ってきた無数のミー アキャットはパイの傍やパイ自身にも上ってきていてパイは振り払っていましたが、それはさながら小蝿や蛆のようで、母の死肉からそういったもの振り払いな がら食べることでなんとか生き延びたっていうね。
それが母の肉なのかどうかは分かりませんが、この映画での食人行為っていうのは確かなことです。島の全体がパイの信仰する神様、ヴィシュヌ神に似ているというのも目にしました。ヴィシュヌ神は確か女性の神様だったような。


つ まり食人行為に対する罪悪、パイは夜に食人をしていたのかもしれませんが、そういった業を虎にだけ背負わせるのではなくて、母や神様、あるいは恋人、共通 するのは母性愛ですかね。そういったものに業の分配、つまり耐え難い現実から逃げるために母性愛などを思い出して精神破綻を防いだのではないかと。
パ イは島を出る時にいつまでもここに居ちゃダメだって思って出て行くんですよ。それは甘えてちゃダメだちゃんと戻って生きなくちゃみたいな感じなんですけ ど、それって堕落しないで生きたいっていう考え方からなのだろうけど、ここら辺の辻褄合わせが上手く行かないんですよねぇ~。食人しちゃってるけど現実逃 避しないでちゃんとこの業の深さから目を伏せないで受け止めていかなければ!っていう事なのかな。

まぁそんなわけで色々と解釈の余地があ る映画です。人によってはまったく違う見解も出来る映画でしょう。映画の中ではある作家にパイがどちら共の話をした後に「どちらがいい?」と訊ね作家は前 者のファンタジー要素の強い話が好きだと答えます。パイはそれに対し「神様の話だからね」と微笑みを返します。信じることがパイを生き延びさせたのでしょ うね。それは神様でもあるし、何よりも自分自身を強く信じた結果だったのでしょう。
実に深みのある映画だと思うし、鑑賞者が何を信じるのかもその人の自由です。真相なんてどうでもよくてその映像美に感嘆するのもこの映画の楽しみかたの一つだと思います。とても考えさせられる映画でした。